■戦争のない泰平の世で世界文化が花開く江戸時代
中国では清の時代。徳川家康が征夷大将軍になってからが江戸幕府。
幕府のの文教政策によって書道界にも革新の風が起こる。
特権階級のものだった書が和様「御家流」の普及により、貴族文化から庶民文化へ発展するのである。
左 「五仙騎五羊」 巻菱湖 中「山水詩画双幅」 貫名菘翁 右「天上大風」 良寛
■唐様 ごく一部の芸事、娯楽としての唐様
市河米庵・巻菱湖・貫名菘翁の江戸時代末期「幕末の三筆」と呼ばれる3人へと展開して行く歴史。
しかし、あくまで唐様は芸事として武家や儒者の一部の信奉者が多かっただけで、現在の書道同様にマニアな趣味に留まり、庶民から支持されてはいなかった。
市河米庵が最も評価が高かったが、明治になって評価されたのは巻菱湖であった。
江戸時代中期ごろから書法の研究が進み、これまでの元・明の書風から晋唐の書風を提唱する者があらわれ、
巻菱湖・貫名菘翁らは晋唐派であり、市河米庵などは明清派であった。
この2派の流れは明治時代になってからも続き、明治時代の多くの書家に影響を与えていく。
その他、江戸時代に最も高い評価を受けているのが「良寛」である。
良寛の「大上大風(てんじょうたいふう)」(現在も現物があるようだ)。
子供達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』の字を書いた。
書は書作品だけで評価されてはいない。
その人の生き方、考え方、行動など、生き様がそのまま言葉になり、ソレが、書になる。
子供の凧に書いた何気ない1枚が今でも愛されていることが何よりの評価ではなかろうか。
■和様 「御家流」寺子屋の影響
寺子屋では主に御家流が習われた。
和様は公家・武家・庶民を含めた広範囲に広まったことで、江戸幕府の公式書体となる一方で、
現在の書道として主流となっている唐様は情報技術として使えず、唐様が儒者や文人趣味を好む学者など特定の範囲にとどまった。
2013年に東京都博物館で行われた「和様の書展」では、最も栄えた「御家流」の展示がほとんどなく、説明文もされなかった。
これは、現在の書道の主体が明治以降、公式書体となった政治的な背景で普及させた唐様であることによる。
近代の書の歴史や評価は、唐様視点で編纂されたため、「寺子屋」という言葉を義務教育で教えても、
そこで学んでいた書ががどういうものだったのかは、書籍にも記載が少なくなり、書家ですら知らないのが現実である。
寺子屋という一般庶民の教育機関が全国に設けられ、その教育の中心が手習いを行ったことで
平安時代以来の書道は上流社会の人々の間で行われて情報技術の書道が一般庶民にまで普及した。
当時の世界では庶民が文字の読み書きができることはほとんどなく、ましてや、女性が文字を読む、書くといったことは非常に珍しいことだった。
つまり、江戸時代のドラマや映画などで立て札に書かれた文字を庶民が読むということができたのは、日本での寺子屋教育のおかげである。
今、江戸時代の文化が高く評価されているのは、西洋や他アジアの一部の特権階級の貴族文化ではなく、
庶民の高い教育水準によってボトムアップで発展した文化であることが大きい。
江戸初期を代表する「寛永の三筆」(近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乗)の書は、前代から継承された御家流を土台としている。
江戸時代中期の和様の代表は、幕府右筆の森尹祥、上代様の復興に努めた近衛家熙、千蔭流を成した加藤千蔭、池大雅などがいる。
池大雅は後に中華の書の影響を受けて独自の書風を確立した。