Japanese calligraphy’s history

平安時代

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風信帖』 空海筆

■平安初期 三筆時代

奈良時代は聖武天皇が中心であったように、平安京の遷都(794年)した平安時代初期は、書道の3筆でもある嵯峨天皇が中心。

文化は平穏な政治情勢が必須であるが、この時代には、日本の書道である「和様」の源流となる空海、橘逸勢、嵯峨天皇、最澄などの名筆が生まれる。

遣唐使で最澄、空海、橘逸勢らが入唐したが、唐の文化は既に衰頽期。

晋唐の書風(王羲之ら)は日本の宮廷社会で愛好され、ことに嵯峨天皇は唐風を好んだようだ。

■平安中期 三跡時代

宇多天皇が遣唐使を停めて以来、日本の書道は日本趣味を増すことになる。

日本の歴史では、外国の影響を受けなくなると文化が衰退するのではなく、

本家を凌ぐほどに独自発展するという特色があるが、まさに、その例である。

三筆同様、ほぼ同時期に、小野道風、藤原佐理、藤原行成、いわゆる三跡が登場し、日本の書風「和様」が確立する。

つまり、草仮名をさらに崩し簡略化して記した「仮名」の発生である。

まだ貴族階級の情報技術であるが、男女の交際は専ら和歌のやりとりなど、和歌の内容と書の書きぶりもその人物の評価を決めるひとつとなった。

わかりやすく言うと、出会い系サイトのメル友の状態をイメージすると良い。

テキストだけで異性とやりとりするとなると、それなりの工夫が生まれるのである。

学校で学ぶ崇高な書のように思えるが、男女の出会いのために急激に発展したのが仮名書(万葉仮名)である。

今のインターネットのように、男女の出会いで情報技術は急速な発展をすることは変わらない。

しかし、この頃は個人情報保護などの考えが無いため公開されているが、現在の歴史観からしたら勘弁してほしいものである。

また、もし、日本に仮名の発明がなかったら歴史はずいぶんと変わっていたと思われる。

仮名の発生により、漢字を使わないでも文字が書けることになった。

これは、日本語が庶民にも学びやすい情報技術となったのである。

事実、漢字しかなかった現在の中国、朝鮮は、庶民の識字率が低いまま20世紀を迎えるのである。

日本が欧米のアジア侵略に対抗できた理由は、文字という情報技術の普及→教育の普及が大きく寄与しているのである。

そして、中華が漢字を簡略化し、一方で、朝鮮は漢字を捨てるという選択をするのは、この頃から約1000年後の判断である。

■平安後期 世尊寺流の登場

藤原行成を祖とした世尊寺流が発生する。

書道の流派は聞いたことがないかもしれないが、当然存在する。

「世尊寺流」は江戸時代に寺子屋で日本全国で学ばれる日本最大、最後の和様となる「御家流」の源流である。

ちなみに、世尊寺家は8代行能から世尊寺の家名を名乗り、17代行季で終焉となる。

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日本最初の書論「夜鶴庭訓抄」(やかくていきんしょう)1168年 – 1177年頃 藤原伊行

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